明治時代の税制

本日は、明治時代の税制についてお話したいと思います。

永井荷風の著書『断腸亭日乗』に、通知された所得税が前年の倍近いものだったので、
幸橋税務署に抗議に行ったと時のエピソードがあります。

申し出の趣旨は尤もなれど、「世に有名の文士なれば、実際の収入よりも多額の認定をなすは
是非なき次第なり。有名税とも言ふべきものなれば、本年は我慢されたし」と言われ、
「刀筆の小吏(しょうり)を相手にして議論するも益なき事」と思って、
それ以上の問答はしなかったと書かれています。

馴染みの薄い「刀筆の小吏(しょうり)」という言葉は、昔、中国で紙の発明以前に用いた
竹簡に文字を記す筆とその誤りを削る小刀・・・
転じて筆記具、さらに転じて記録を指し、その記録を司る下級の役人の意味です。

当時は、現在の住民税と同じく賦課課税でしたが、
課税決定のための情報申告義務はありました。

所得調査委員会の調査と申告とに大きな乖離がない時は、
申告を尊重するようになどという内示も出ています。

現在は、沖縄を含め全国に12の国税局と524の税務署があります。

税務署が創設された明治29年(1896年)10月の時は、
23の税務管理局と520の税務署が創設されました。

現在の東京23区内の税務署数は40ありますが、
明治29年の時は10で、幸橋税務署はその1つでした。

現在は、京橋・芝・麻布の各税務署にわかれています。

全国の税務署数に大きな相違はないのですが、東京23区内は4倍に増えています。

当時の賦課課税制度のシステムは、税務署の第一次調査をもとに
所得調査委員会の第二次調査が行われ、調査委員会の決議額で賦課決定される仕組みでした。

税務署の第一次調査は、所得標準率をもとに一律に推計した数値を基本とするものです。

調査委員会の第二次調査は、地域や納税者の実情に応じた権衡をはかる趣旨で、
主に削減調整をすることでした。

所得調査委員は、地域の納税者代表という性格を持つべく
市町村から複選制・記名連記制で選出されています。

賦課課税制度とはいっても、なかなかの民主的な性格をもっています。